思わぬ配属が今を創る

思わぬ配属が今を創る

 

人間万事塞翁が馬? 

職業人生では、思わぬことが起こります。それが人生の転機となり、いろいろな経験をすることになります。最初は何で自分がこんな目に遭うのかと周囲を恨んだものの、結果として有意義な成果を味わえることになり、自分はラッキーだったと思い直すことも多々あります。

今日は、そんな経験の一つについて書いてみます。

思わぬ配属でIdentity Crisis

私が最初に就職したのは三菱総合研究所でした。三菱創業100周年の記念事業として三菱グループ各社の共同出資により設立された会社に、1974年に新卒4期生として入社しました。

入社の動機は極めて単純です。当時はシンクタンクブームで何となくカッコ良かったから、設立以来立て続けに学科の先輩が入社していたから、というだけでした。

入社手続きも簡単でした。指導教官の伊理正夫先生に「三菱総合研究所に就職したい」と申し出ると、「君もそういうところに行きたいのか」と苦笑されながらも、知合いの課長の方に電話してくださいました。大学の先輩は、皆大学の専攻(オペレーションズ・リサーチ)に近い事業内容のその課に所属していたからです。

会社を訪問すると「おお、来たか」という感じで、少し話をした後そのまま飲みにいき、それで決まりました。何とも牧歌的な時代でした。飲みながら、その課の兄貴分の社員の方に何か延々と諭された記憶はあるのですが、内容はさっぱり覚えていません。

当時は新人研修が3週間あり、その最後の日に配属が通知されることになっていました。でも私にとっては配属先は自明なので、特に気にはしていませんでした。

ところが、発表の前日になって同期で博士課程出身の方が「福永さんの配属先はねぇ」と思わせぶりなことを言います。年長なので何かコンタクトがあってのことのようで、ちょっと気になりましたが無視しました。

翌日になると、配属先は会社訪問したところの隣の課でした。隣と言っても対象分野は社会システムなので、業務内容は全く異なります。実際、生まれて初めて行った客先は、当時の通産省でした。

大学院では全くと言って良い程勉強しませんでしたが、一応理工系の出身で、技術に磨きをかけるつもりでいました。ですから、これは文字通り青天の霹靂でした。

当時参加した専門外(?)の仕事には、XXXX道路環境アセスメント、YYYY空港環境アセスメント、騒音解析プログラム開発、等があります。

これらの仕事の社会的重要性は認めますが、その結論の導出過程の厳密さに関しては、理工系学生としてはどうしても馴染めないものがつきまいとます。とても一生を賭けた仕事としてコミットする気にはなれませんでした。

とはいえ、大学での専門分野でスキルを磨こうにも、先輩達が国産の数理計画法システム開発という大プロジェクトに毎日取り組んでおり、とても勝負になりません。

では、自分はどうするんだろう。ここで、人生初めて Identity Crisis に陥りました。

それまでは、「一生懸命勉強すれば良い大学に入れる。大学に入れば、良い先生に出会える。そこで見つけた好きなことを一生の仕事としていけば良い」という親や学校の先生達から与えられたパラダイムに何の疑いもなく従ってきました。それが崩れてしまったので、為す術がなかったのです。

どれくらいだったか今となっては正確に覚えていませんが、1年くらいは悶々とした日々を送っていました。後に経済学の大学院に入り直し大学の先生になった同期生と、二人とも新婚で松戸に住んでいたこともあり、土曜日にお互いの家を行き来して経済学の勉強会をしていたことを覚えています。

コンピュータ・サイエンスへの挑戦

そのうちに、何故それを思いついたのかの経緯が全く思い出せないのですが、「コンピュータ・サイエンスやろう!」と思い立ちました。理由はこれまた単純、「これなら勝てる!」でした。

1960年代の終わり頃になってコンピュータ・サイエンスの学としての重要性に人々が気づきだし、スタンフォード大学、MIT、カーネギー・メロン大学に相次いでコンピュータ・サイエンス学科が設立されました。

でも、当時の情報流通スピードは非常に遅く、日本でアメリカの研究動向を知る最大の手段は米国の学会誌を読むことしかありませんでした。学会誌に載るのは、研究済みの結果が投稿されてそれが審査を通ってからですから、実際の研究はその遥か先を行っている状態です。

日本の大学の研究設備も整っておらず、主要大学に大型計算機センターがあるだけ、プログラムはカードで提出してバッチ処理の結果を数日後にもらう、というのが普通でした。私の大学の隣の研究室には松下電器製のミニコンピュータ(大型冷蔵庫のサイズ)がありましたが、それは滅多に見られない極めて恵まれた環境でした。

学習院大学の米田英一先生がなぜか家にミニコンピュータを所持しておられ、それで毎日 π(パイ)の計算をしておられるという噂が流れ、とんでもない人がいると評判になっていました。それを聞いて、卒業のときに同期生に「僕もいつか家にミニコンピュータを置く」と言って呆れられた思い出があります。

そんな状態ですから、「会社勤めの傍ら英語で原書を読んで、先の見えないコンピュータ・サイエンスの勉強をするような無謀なやつは他にはいない」というのが読みでした。コンピュータ・サイエンスで食っていけるかどうかには一抹の不安がありましたが、それしか手は見つからないので、それに賭けるという心境でした。

勤め先は大手町だったので、毎日新京成五香駅発の始発に10分間、松戸始発の千代田線に30分間座り、本を読みながら通勤しました。土日も週末出勤をしなかった日は、ずっと本を読んで過ごしました。随分経ってから、当時新婚だった家内に「あのときは寂しかった」と言われ、今でも頭が上がりません。

そうこうするうちに、通産省がソフトウェア産業を振興するために協同システム開発(株)という国策会社を作り、業界の助成プロジェクトを始めました。

1977年に、そのプロジェクトのテーマの一つ「プログラム検証系」に応募し、コンペに勝つことができました。コンピュータ・サイエンスで食えるという仮説が検証できた瞬間でした。

プロポーザルの審査に当たった委員の一人で当時慶応大学におられた土井範久先生に、「これあなたが書かれたの?いや、感心しました。」と言われ非常に嬉しかったとともに、人に先んずることの有効性についての成功体験も味わいました。

これを機に、本業としてコンピュータ・サイエンスの勉強をすることができるようになり、その後本格的に研究をしたくなりIBMの東京基礎研究所に転職するに至りましたが、今日の話はここまでです。

不本意な経験から学べたこと

今日お話ししたかったのは、思わぬ配属の結果、以下のようないろいろなことが学べたということです。

  • 誰もがいつかは、人が敷いたレールの上ではなく、自分で選んだレールの上を歩かざるを得なくなること。もしそうなら、そういう経験はなるべく早くした方が良いこと。
  • 自分が歩くレールを選ぶためには、仮説を立てそれを検証するという方法に頼るしかないこと。人生を賭けた仮説検証なので不安になるのは当然だが、尻込みしても何も得られないので大胆に突き進むしかないこと。突き進めば(たとえ完全には成功しなくても)なにがしかの学習ができるので、それをもとに成長できる、という風にポジティブに考えるべきこと。
  • そういう過程を通じて上記のようなことが語れるようになり、自分の人生設計を上から観察するメタな自分を持てるようになること。その結果、人生の設計を意識的に行えるようになること。

その後何回かメタな自分の判断をもとに意図的に職を変えてきており、それなりに楽しんできましたが、それらについてはまた機会があればお話ししたいと思います。

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